![庭園の池に面した座敷の間を「遷善(せんぜん)」](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=1070x10000:format=jpg/path/s0c3d9d633d6e9cc5/image/i4a48baffe2a3803a/version/1717292104/%E5%BA%AD%E5%9C%92%E3%81%AE%E6%B1%A0%E3%81%AB%E9%9D%A2%E3%81%97%E3%81%9F%E5%BA%A7%E6%95%B7%E3%81%AE%E9%96%93%E3%82%92-%E9%81%B7%E5%96%84-%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9C%E3%82%93.jpg)
庭園の池に面した座敷の間を「遷善(せんぜん)」と名づけました。
「遷善」は、旧久喜市に在った
郷学遷ごうがくせん善館ぜんかんに由来します。
久喜には、享和三年(一八〇三)創立の遷善館という郷学(学校)がありました。
享和元年(1801年)久喜の代官となった早川 八郎左衛門正紀(はやかわ ちろうざえもんまさとし)の推奨により、庶民のための学校として創設されました。場所は推定の域を出ませんが、現在の久喜本町、愛生会病院のあたりと云われています。
創立の趣旨・経緯については、亀田 鵬斎(かめだ ほうさい)の撰文になる「新建久喜遷善館記」に詳しく記されています。この碑は、明治11年(1878年)の大火で焼失しましたが、拓本が残されていました。
この拓本をもとに、「新建久喜遷善館記」碑のレプリカが公文書館の庭に建てられており、「遷善館」の扁額は、現物が榎本家に保管されています。
2名様から10名様